主観的評価と、客観的事実を論理的に切り分けることの重要性

団交でもこの切り分けができない人が多い。相手の悪意を立証しようと思ったら、主観を攻めるのではなく客観をである。つまり心の中なんか立証できるわけがないのだから、それを表象する、そういう評価を帯びる外形的事実を指摘し、そこを攻める。ブラック企業相手に良識に訴えても徒労に終わるだけなんだから。

たとえばだ。誠意ある説明を行い、ご納得いただいた上で退職勧奨の合意書に署名・捺印をいただいたと使用者側が説明しているとする。ここで、「誠実」だったかどうかの判断を使用者側の心の問題だと判断し、そこに焦点をあてていては勝てない。「誠実」かどうかは、きわめて主観的要素が大きいからである。

それよりも、「誠実」に説明した時間がわずか5分間だったらどうだろうか。有休の買取の説明をし、買い上げ額がいくらになるのかまで説明し、さらに、失業保険の手続の案内も、その5分間でやっていた事実があるのだったら、さらに加えて、退職勧奨の誠実な説明などその5分間では不可能なのである。

繰り返す。退職勧奨の同意について、有休の買取から失業保険の手続の説明を行った上で、さらに退職勧奨の誠意ある説明をこの5分間という物理的な制約下で可能なのかどうか。主観ではなく客観、そこを追及すべきである。

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